続続シルクロード

せっかくなので翻訳したのを。


ちなみに、はてなでうまく変換できない文字。普通はJISに入ってない中国語の文字でも自動的にUnicodeの数値参照に変換してくれるんだけど、これらの文字は正しく変換されない(?になるか、全く別の字に化ける)ので直接数値参照で書く必要がある...
德 (U+5FB7)
綠 (U+7DA0)
黑 (U+9ED1)
① (U+2460)〜⑩ (U+2469)


丝绸古道旅游【第一章 丝绸古道的概念、分类和名人名著】(繁体版:絲綢古道旅游【第一章 絲綢古道的概念、分類和名人名著】
綠洲絲綢古道

  綠洲絲綢古道では、中国の絹製品(絲綢)が主要商品である。それは東の河南省開封市から始まり、鄭州陝西省西安長安)、咸陽 (渭城)、甘肅省平涼、寧夏固原(安定郡)、甘肅省靖遠を経て武威へ至る、あるいは咸陽、寶雞、秦安、天水、岷縣 (臨洮)、蘭州(金城)を経て武威へと至る。武威からは永昌、張掖(甘州)、酒泉(肅州)、嘉峪關を経て甘肅省の安西縣に至り、その後3道、即ち塔北道、塔南道、準南道に分かれる。


  1.塔北道
  塔北道は塔里木タリム盆地北沿に沿うことからその名を得ており、漢代には“北道”と称された。《漢書》曰く︰“車師前王庭(即ち新疆吐魯番トルファンの交河故城)、北山(天山を指す)に沿って陂河を西行し疏勒に至る(即ち現在の新疆喀什カシュガル市一帶)、これを北道と言う。北道は西で?(帕米爾パミール高原を指す)を超えて、大宛(現在の烏茲別克斯坦ウズベキスタン費爾干納フェルガナオアシス一帶)、康居(現在の烏茲別克斯坦ウズベキスタン薩馬爾罕サマルカンドオアシス一帶)、奄蔡(康居より西、里海カスピ海より東に位置する)に出る”。南北朝時には準南道が形成され、これによって、準南道は“北新道”あるいは“新北道”とも称する。または塔北道を“中道”と言う場合は準南道を“北道”と言うこともある。塔北道は、安西(瓜州)から敦煌を過ぎた後、西北の玉門關から出て、吐魯番トルファン(車師前國)、焉耆(北大渠鄉、四十里城子鄉、七個星鄉)、庫爾勒コルラ(塔什店、鐵門關、庫爾勒舊城等)、輪台の策大雅鄉(烏壘)、庫車(龜茲)、阿克蘇アクス(姑墨)、喀什カシュガル(疏勒)、帕米爾パミール高原(蔥岭)、烏茲別克斯坦ウズベキスタン費爾干納フェルガナ薩馬爾罕サマルカンド土庫曼斯坦トルクメニスタンの馬雷(木鹿城)、伊朗イラン安息パルティアまたは波斯)の馬什哈德マシュハド、達姆干(和櫝城)、德黑蘭テヘラン哈馬丹ハマダン(阿蠻)、伊拉克イラク(條支國領域)の 斯賓と巴格達バグダッド(塞琉里亞)、敘利亞シリア(條支國領域)の臘卡ラッカ(塞佛立昂)を経て、土耳其トルコ(大秦または黎軒、つまり古の羅馬ローマ帝國領域)の安塔基安アンタキヤ(安都城)に至る。安塔基安アンタキヤからは道が分かれ、西北に行くと安卡拉アンカラを経て伊斯坦布爾イスタンブール君士坦丁堡コンスタンティノポリス)に至り、さらに羅馬ローマ威尼斯ヴェニス巴黎パリ倫敦ロンドン阿姆斯特丹アムステルダム等に行くことができる。また西南に行くと黎巴嫩レバノン貝魯特ベイルート、賽達(西頓)、 耶路撒冷エルサレムと蘇爾(推羅)を経て、埃及エジプト開羅カイロあるいは沙特阿拉伯サウジアラビア(大食)に至り、ここからも羅馬ローマ威尼斯ヴェニス巴黎パリ倫敦ロンドン阿姆斯特丹アムステルダム等に行くことができる。


  2.塔南道
  塔南道は塔里木タリム盆地南沿に沿うことからその名を得ており、漢代には“南道”と称された。《漢書》曰く︰“鄯善(現在の若羌一帶)から南山(昆侖山を指す)付近を北、陂河を西行し莎車に至る、これを南道と言う。南道は西で蔥岭を超え、大月氏(今の阿姆アムダリヤ河流域一帶)、安息パルティアに出る”。塔南道は、安西(瓜州)から敦煌を過ぎた後、西南の陽關から出て、樓蘭ローラン羅布泊ロプノール一帶)を経て、或いは経ないで、若羌、且末、 民丰(精絕)、策勒(捍彌)、和田ホータン(于闐)、皮山、莎車、帕米爾パミール高原(蔥岭)に至り、帕米爾パミール高原を越えた後は2つに道が分かれる。南道は巴基斯坦パキスタン伊斯蘭堡イスラマバードを経て印度インド(身毒または天竺)の新德里ニューデリーに至り、さらにその他の地域にいくことができる。西道は阿富汗アフガニスタン大夏)の法扎巴德(阿姆アムダリヤ河流域,大月氏故地)を経て、西に行って赫拉特ヘラートまで至るか、または西北に行って馬雷(木鹿城)に至り、塔北道と合流する。


  3.準南道
  準南道、これは綠洲絲綢古道の三道のうち最後に形成された道で、準噶爾ジュンガル盆地南沿に沿うことからその名を得ている。《新唐書》に拠るとこのように知られている︰ 準南道、安西より西北に進み星星峽(猩猩峽)、哈密ハミ(伊吾)、木壘、奇台(古城)、吉木薩爾ジムサ(庭州)、阜康、米泉、烏魯木齊ウルムチ(輪台)、昌吉(張堡守捉)、烏蘇、精河(石漆河)、霍城(弓月城)、伊宁、哈薩克斯坦カザフスタンの伊犁あるいは阿拉木圖アルマトイ吉爾吉斯坦キルギスタン托克馬克トクマク城(碎葉)を経て哈薩克斯坦カザフスタン怛羅斯タラスに至りさらにその他の地方に行くことができる。また、東西に通じる準南道、塔北道と塔南道の間にも南北方向に通じる道が相互に連結しており、綠洲絲綢古道を網の目状に延伸している。南北方向の通道は主に新疆塔克拉瑪干タクラマカン沙漠のオアシス道と、天山の南北を連結する山谷通道を通っている。塔克拉瑪干タクラマカン沙漠は塔里木タリム盆地の中央に位置し、東西約1000km、南北400kmあまり、面積33.7万平方km、流動砂丘が85%を占め、極端に乾燥しており、内部の年降水量は10mm以下。歴史上、特に唐宋以前において、塔里木タリム盆地の南北を連結する主要交通幹線であり、現在の盆地沿いの東西両側の路線はなく、大砂漠を横断する4本のオアシス道であった。

  ①葉爾羌ヤルカンド河道。(現在の墨玉縣から)“北に向かい姑墨(即ち現在の阿克蘇アクス)に至る、千四百五十里”(《漢書》を参照),この路線は現在の喀拉喀什カラカシュ河の古河道になっており、墨玉縣西部(古の皮山國領地に属す)から北に向かって大砂漠を貫き、麻扎塔格マチャタク喬喀塔格チャオカタクの両山の間を通過し、葉爾羌ヤルカンド河の谷に入って阿克蘇アクスに至る。唐代の僧、悟空はこの道を通った。

  ②和田ホータン河道。(阿克蘇アクスより)“南に向かい于闐(即ち今の和田ホータン)へ馬で行くこと十五日”(《漢書》を参照)、この路線は現在和田ホータン市から玉龍喀什ユルンカシュ河に沿って、和田ホータン河を北に向かい阿克蘇アクスに至る、喀什カシュガルに迂回する道に比べ約500km近く、巴楚に迂回する道に比べ約300km近い。東漢の班超は常にこの道を往来した。

  ③克里雅ケリヤ河道。現在の于田縣を流れる克里雅ケリヤ河は、現在は北の方は砂漠の中に消失しており、沙雅縣城まで160km以上ある。克里雅ケリヤ河の西側の支流の旧河道は100年以上前に和田ホータン河に流入しており、清朝の禮部員外郎、徐松はこの道を通った。克里雅ケリヤ河の本流の旧河道は1000年前に塔里木タリム河の旧河道に流入していて、晉朝の名僧法顯はこの道を通った。克里雅ケリヤ河の東側の支流の旧河道は400年前に塔里木タリム河の旧河道に流入していて、16世紀の海達爾の著した中央アジアの名著《拉失德史》に明確な記載がある。

  ④尼雅ニヤ河道。現在の民丰縣(古の精絕國領地)を流れる尼雅ニヤ河は、北流と克里雅ケリヤ河が既に合流しており、この路線は西暦4世紀後に精絕國の滅亡とともに使われなくなった。

  天山の南北を連結する山谷通道。新疆準噶爾ジュンガル盆地と塔里木タリム盆地の間にあり、高く聳える天山は東西方向に連なっており、その長さは1700km以上に達する。両大盆地の間には主要通道が9本存在する。北庭(今の吉木薩爾ジムサ縣)と西州(今の吐魯番トルファン盆地)を連結する花谷道、移摩道、薩捍道、突波道、烏谷道と他地道(この6本の古道の具体的なルートはまだ考証が待たれる)、烏魯木齊ウルムチ吐魯番トルファンを連結する白水澗道、昭蘇縣と溫宿縣(阿克蘇アクス市旧城)を連結する穆素爾岭道、溫宿縣と吉爾吉斯斯坦キルギススタン伊塞克イシククル湖付近(漢代の烏孫國國都である赤山城所在地)を連結する拔達岭道。この中で最も難行するのは穆素爾岭道(“穆素爾”は突厥語で冰山口を意味する)と拔達岭道である。

  【穆素爾岭道】 位于天山最高峰托木爾峰(海拔7435米)的東側,南起溫宿縣的克滋布拉克,北至 昭蘇縣的夏塔,長約120公里。此道雖然冰川艱險難行,但歷來行人不絕。公元1777年七十一的 《西域聞見錄》曰︰“……穆肅爾達 ,譯言冰山也……”“……南行,有雪海,一望無際。冬雪 極深,夏亦冰雪泥淖。人畜皆于山坡側岭羊腸曲徑而過,失足落海中,則沓然沉墜,不复可見。過 此二十里,即冰山矣,無土沙,無草木,在目皆冰。冰之厚薄,初不知其几何尋丈,層巒疊嶂,千 仞攢空,如嵩(山)華(山)者,皆冰也。裂隙處,下視正黑,不見其底,水流之聲澎湃如雷鳴, 人聚駝馬之骨鋤メ布其上,乃可置足。陡絕處,亦鑿有冰蹬,陟峰攀援,滑津万狀。硅步不謹,?s落 冰澗中。時聞冰裂,其聲琅然,山谷相應。經其地者,人畜魚貫而行,莫不惴溧。冰上皆石塊,石 子小者如拳如栗,大者如屋如樓,往往有數丈大石,惟徑尺冰柱支撐而立,人必于其下往來。設中途 日暮,暗不能行,須擇穩厚大石,伏于其上。夜靜聞有如鉦銃鐘磬之聲,絲竹管弦之奏,通宵聒耳, 則遠近冰裂之繁音也。其冰亦長落無常時,或突起,則高三五百丈;或時沉陷,則下三五百丈。道路 亦無一定之所。有神獸一,非狼非狐,每晨視其蹤之所往,踐而循之,必無差謬。有神鷹一,大如雕, 色青白,或有迷失路徑者,?s聞鷹鳴,尋聲而往,即歸正路。……”

  【拔達岭道】 位于托木爾峰的西側,曾為漢代中原通烏孫國都的重要孔道。唐玄奘大慈恩寺三藏法 師)曾路過此地並著《大唐西域記》云︰“國(即今溫宿縣一帶)西北行三百余里,度石磧,至凌山 (即托木爾峰),此則蔥岭北原,水多東流矣。山谷積雪,春夏合凍,雖時消泮,尋复結冰。經途險 阻,寒風慘烈,多暴龍,難凌犯。行人由此路者,不得赭衣持瓠大聲叫喚,微有違犯,災禍目視。暴 風奮發,飛沙雨石,遇者喪沒,難以全生。”《大慈恩寺三藏法師傳》又云︰“其山險峭,峻極于天。 自開辟以來,冰雪所聚,積而為凌,春夏不解,与云連屬,仰之皚然,莫見其際。其凌峰摧落鋤メ路側 者,或高百尺,或廣數丈,由是蹊徑崎嶇,登涉艱阻。加以風雪雜飛,雖复履重裘,不免寒戰。將欲 眠食,复無?處可停。唯知懸釜而炊,席冰而寢。七日之后方始出山,徒侶之中凍死者十有三四,牛 馬逾甚。”如今,這13條南北通道中,最迷人的莫過于葉爾羌河道(1514-1678年西域強大的葉爾羌汗 國國都所在地)、和田河道(目前唯一的塔克拉瑪干沙漠綠色走廊)、克里雅河道(這里的“沙漠世 外原始桃源人”即克里雅人已聞名世界)、尼雅河道(尼雅遺址現為絲綢古道最具誘惑力的景點)、 他地道(又名小雪山道,1981年,回族人張承志先生的《王延德北庭高昌路線考》在日本國引起轟動)、 穆素爾岭道(冰山古道)和拔達岭道(唐僧的凌山道)。如果您有興趣,同時也不怕獻身于偉大的探 險事業,那么這7條南北向的絲綢古道,不妨一試﹗