「ふしゅう」はなぜ間違いか

12/13付けの読売新聞朝刊の解説面「五郎ワールド」(特別編集委員 橋本 五郎)「一海先生に学ぶ」というコラムが掲載されていた。内容について軽くツッコミ。

 ところで、麻生首相が「踏襲」を「ふしゅう」と読んだのは本当に間違いなのだろうか。漢字には音と訓の二つの読み方があり、音と訓が交ざった「重箱よみ」や「湯桶よみ」があるではないか。
 一海先生によると、日本製の漢字である「国字」と違って、中国製漢語は音と訓が交ざったものはない。「踏襲」は中国製の漢語であり、「ふしゅう」と読んではいけないのだ。
 それでは「未曽有」を「みぞうゆう」と読むのはどうか。漢字の読み方には、「下」を「ゲ」と発音する呉音と「カ」と発音する漢音がある。「未曽有」の「ミ」も「ゾ」も呉音であり、「有」も呉音の「ウ」でなければならない。この辺は専門にわたるので「漢字の話」*1を繙いていただきたい。

なんか用語がごっちゃになってるんですけど。日本製の漢字は「国字」、これは間違ってないから別にいい。ただ「国字」と「中国製漢語は音と訓が交ざったものはない」の一文は全然関連がないのにどうして「違って」などと言って結びつけるのか?


正確に言うならば、「日本製の漢語と違って」というべきだろう。なぜ「国字」などと全然見当違いの言葉を突然出してくるのか理解ができない。国字にはそもそも「中国語音」など存在しないのだから音と訓が交ざりようがない。


一海先生という人物は中国文学の泰斗との紹介があるのでよもやこのような過ちは犯すまい。だとすると執筆者の橋本氏が伝言ゲームしてしまったのであろうか。


中国語由来の漢語は「音のみ」で構成されるというのは初めて知った興味深い事実だけど、言われてみると当たり前なんだろうなぁ。逆に重箱よみ、湯桶よみの熟語は日本製の漢語だと。但し必要条件であって十分条件ではないので注意しないと。「音読み」だからと言って中国語由来の漢語とは限らない。
ちなみに「踏襲」は中文では蹈襲(dao4 xi2)。意味は『因襲成規,而不能自闢途徑。』(既存の決まりに従うのみで、自分で道を開けない様)と、ただ引き継ぐだけというより、かなり消極的マイナス的な意味が入っているようだ。

 最後に、一海先生がユーモアがあり、楽天的、改革的という、かつての漢字文化圏ベトナムホー・チ・ミン大統領の漢詩をご紹介しよう。1942年、中国で蔣介石軍に捕まった時に獄中で作ったものという。
 第1句「囚人が牢屋から出ると、そういう人物こそが国のために尽くすかも知れぬぞ」
 第2句「患(災難)がひどい時(過頭の時)にこそ人間の忠の心があらわれる」
 第3句「人間には憂いがあってこそ、その優れた点(長所)は拡大する」
 第4句「本物の龍が躍り出る。そういう人物を反動どもは牢屋に閉じこめているのだ」
 国が大きな危機に直面している時の政治家の気概の大切さを歌っているとも思える。

原文はこうなっている。

囚人出去
過頭時始見
點大
閂出真


写真を見れば分かるが、一部の漢字の脇に傍点が付いているのが分かると思う(上文では赤字にした)。ちょっと考えれば気がつくと思うが、これには巧みな漢字遊びが施されている。あえて無視しているのかどうかは分からないが、コラムでは最後の超意訳を入れることで政治的意図を引き出すことだけが狙いと思われ、漢字遊びについてはスルーされているので紹介しておく。

 第1句「われたが出れば、いはの為になるかもしれない」

の字からが出て、が入れば、になる。

 第2句「(災難)がひどい時(過頭の時)にこそ人間のの心があらわれる」

の字の中には、の字が含まれている。

 第3句「いがあってこそ、そのれた点(長所)は拡大する」

(偏)とがくっつくことで、の字ができる。

 第4句「の閂を開ければ、真のが躍り出る」

から(冠)を取ると、の字になる。

*1:一海和義著作集 第10巻「漢字の話」、藤原書店